アドラー心理学(個人心理学)の目的論

アドラー心理学の目的論 自己啓発

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皆さん、アドラー心理学をご存知でしょうか?
「嫌われる勇気」という岸見先生の本が有名ですが、僕もアドラー心理学には以前から興味があり、アドラーの原著である「個人心理学講義」や「こどもの教育」等をそれ以前から読んでいます。
大抵の書籍はScanSnapで取り込みをするのですが、これらは旧版で大切な書籍で、なんとなく裁断することができず、一定の書籍だけはいつでも手にとって読めるよう、裁断せずに本棚に置いています。

目的論

さて、アドラーが述べることの中に、

目的論

があります。
簡単に言えば、何かしらの目的をもって、人の言動は為されるといったものです。
トラウマという概念さえもアドラーは否定し、一定のことをやらない目的のためにトラウマという状況を作り出しているに過ぎないとしています。
○○をやらないために、過去に○○で嫌な目にあったというトラウマの感情を自ら作り出している。
トラウマが原因ではなく、「やらないという目的」のために自分でトラウマを作り出しているというわけです。
目的論は賛否両論があるとは思いますが、生活の中、もちろん私生活の場でも、仕事の場でもよく体験することがあります。

マイナスの目的論

以前僕の後輩に、他の人や先輩達が教えても素直にその通りにやろうとしない人がいました(名前をS君としましょう)。
S君はホントに徹底していました。
そんな人に出会ったことがなかったので当初は驚きましたが、何度もそういったことが続き、僕が教える際にもああだこうだと言い返して決してその通りにやろうとしません。

他の人達も呆れてしまい「では自分のやり方でやってみろ」とやらせるわけです。
すると、S君が自分のやり方でやって出来上がってきた仕事の結果がとてもじゃないけど要求される品質の半分にも満たないものでした。
当然ながら先輩達から批判されますが、ここでもS君は言い訳をします。

「別のやり方があって、自分はその通りにやっただけだ(だから自分は悪くない)。」

社会人としてのこの論法も僕は初めて遭遇するものでした。
挙句には「どこそこの有名な誰それがやった方法なんですよ!」と、「方法の優位」を主張します。
(※さらに加えると、実際はS君はその方法も間違ってやっていたりします。)
色んなやり方があろうとも、自分がそのやり方で「できたかどうか」は別の話です。
S君には、自分の「技量」という概念が欠如しています。
そして肝心要の、自分が生み出したモノの「質」への自己評価も欠如していたのです。

僕は指導する側でしたので彼の理解に努めましたが、正直難しい。
スキルを上げるわけでもなく、人から言われた通りにもやらず、自分が選択した方法でも結局まともな結果が出せない、という状況を選択することに、一体何のメリットがあるのかわからなかったのです。

S君は何故頑なに先輩達のやり方に従わないのでしょうか?
その理由は、

「自分はそのやり方でできないかもしれない」
「やってしまうと、できないことがばれる」
「それならば最初からやらないようにするか、違う方法を採ればできなくても誤魔化せるかも」


おそらくはこの三段論法ではないか、と段々わかってきました。
バレないように、誤魔化せるように、という「目的」のため、敢えて「やらない」わけです。
そして、ハードや方法論、教える人のせいにしておけば自分に責任は問われないと勘違いしているのでしょう。
実際に生じるのは「他責な上に、妥当な結果も残せない人」という周りからの評価だけです。
傍目から見れば、バレているし、誤魔化せてもいない。
今は彼とは関わりはありませんが、S君は最後まで他責で妥当な結果も出せないままでした。

他にも例を挙げましょう。
親が子供に、教師が生徒に、上司が部下に、不作為(やるべきことをやってない)について何かしら指摘したとしましょう。
そこでよく耳にするのが、

「言い方が気に入らない」
「今からやろうとしていたのに」

といったもので、それで不貞腐れて、結局不作為のまま。
これらの言葉はとても便利な言葉です。
何せそう言っておけば、まるで相手に責任があるかのように返せて、しかも「気に入らないから、やらない」で済むのですから。
そしてやらなければ、自分がやった後に評価されることからも事前に逃げることができる。

皆さんもそういえばと思い当たる節がありませんか?

目的論は使い方次第

僕自身も目的論に沿った行動をしてしまっている、と、ふと気づくときもあります。
自分が嫌なことをしないでいいように、嫌な目に遭わないように、目的論を用いているわけです。
一応資格のブログなのでそれに関連したことを述べれば、行政書士は当初自分には受かるわけがないと言って、初めて受けたユーキャンの講座は憲法の段階で投げ出しました。
今思えば、落ちるのが嫌だから、受けなければいい、ならば最初から勉強しなければいい、という、ご立派で且つ典型的な、目的論に沿った行動でした。
このように普段周りで見る目的論的な言動は、ほとんどは自分にとってマイナスだと予測した上でのものです。

しかし目的論は使い方を間違えなければ自分(ないし周りの人)のモチベーションを上げるには最適なツールのひとつにもなります。
失敗を恐れてやろうとしない人が、目的論的選択で、やろうとしないことは先に述べました。
ではそういう人が動くようにするためには、「やる」ことで得られるメリット、そのメリットを享受するという「目的」の方を選ぶようにするのが遥かに幸せだと思います。
例えばその人には技術的な問題(スキル自体が低い)があってその方法を採ることができない、バレるのは嫌だ、そういった「原因」がわかったところで「なんでやらないんだ!ちゃんとやれ!」と言ってもやるわけがありませんし、本人は反発するだけだと思います。
それよりも、自分の仕事は一定の質のモノを作り上げること、そしてそれを享受する他人が評価主であり、その人達が認めてくれることで初めて自分の仕事が評価される、ということを理解することの方が先決です。
この構図を理解していないと、「自分が作り出したモノを文句言わずに受け入れてくれ」と、他人に強要するだけの人になってしまいます。
「プラスの目的」を具体的且つ明確にイメージできるかで、その後の言動が有意義になるものかどうかが決まります。

※僕はS君に対しては何とか一人前になってほしいと思ってプラスの目的論を何度も説きましたが、残念ながら僕の力及ばず、彼には暖簾に腕押しでした。
余談ですが、最初に感じる違和感はとても重要で、大体はその違和感の通りの結末しか招来しないものだと思ったりもします。

自らはプラスの目的志向で

他人にプラスの目的論の言動を期待するのは難しいですが、よく言われるように、他人を変えるよりは自分を変える方がまだ容易い
であれば、自分自身がマイナスの目的論的言動は避け、プラスの目的論的言動を積極的に選んで行くのがベスト。
資格試験に合格して喜んでいる自分や家族をイメージして、それを実現させる目的のために、自分は今日も勉強机に向かう、と。
こういったプラスの目的論的思考は、よくよく具体的なイメージを持った目的の方が自分自身の意思の強さや現実の行動に繋がりやすいと思います。

直感的な行動も時には必要ですが、よりよき結果を望むのなら、自分の目的を篩い分けて明確にイメージした上で行動するのがいいでしょうね。

tomo拝

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